資本主義であり民主主義である現在の先進国と呼ばれる国々では勝ち組、負け組という格差が生じます。
民主主義とは「私は私である、私にも決定権があり私を認めるのも私である」ということ。資本主義とは「資本、つまりお金が社会の基本動力となる社会」なのかな(現代社会全然勉強してないw)。
つまり資本主義であり民主主義である現在の先進国と呼ばれる国々では、
「私は私である、私にも決定権があるし私を誰も否定できない」
という民主主義社会に生きているにもかかわらずお金がないので実際何もできないという人が誕生します。
そんな彼らの中に溜まっていたフラストレーションが爆発してしまう事態が起こることがあります。
「こんなクソみたいな人生」 黒子のバスケ事件、被告が法廷で吐露した「負け組」の思い (1/3) – ITmedia ニュース
2012年の秋頃から約一年に渡り、「黒子のバスケ」の作者、藤巻忠俊に対して脅迫文を送りつけるなどして悪質な嫌がらせを行い逮捕された一連の事件。
犯行動機について、「自分の人生は醜くて汚くて、無残。挽回の可能性がなく、社会から退場したいと思っていた」と告白。上智大学出身の藤巻氏の学歴やバスケ漫画での成功について触れ、「手に入れたくて入れられなかったものを全て持っている作者のことを知り、人生があまりにも違うと思った」と述べた。 _記事一部抜粋
ムシャクシャしてやった。の典型例。
被害者に私的な恨みはなくたまたま同じ上智大学だっただけということからほぼ無差別に近いといえます。
つまり恨んでいたのは被害者ではなく社会全体。反社会的行為がたまたま個人に向けられていただけということですね。
競争社会で負けた人の末路
私たちは小さい頃から競争社会というものを教育によって植えつけられます。
運動場でのかけっこ、リレー、学校の勉強、テストの点数、美術、芸術にまでもが順位を付けられ他者と比べられます。
口では個性とか平等とかいいつつも実社会では勝ち負けだということを最も効果的に教えられているのです(そんなことねえのに)。
負けたら誰だって悔しい
こんなクソみたいな人生と話す被告人の人生がどんな人生だったのかはわかりませんがおそらくそれは本人にとって社会的に「負けた」と感じる人生だったのでしょう。
負けたら誰だって悔しいです。
子供の頃、ゲームに負けて地団太を踏んだ経験は誰にでもあることだと思います。
桃鉄(ハドソンのゲーム)で負けまくってコントローラーを投げたり、リセットボタンを押したりって経験よくありますよね?
甲子園では負けたチームが悔し涙を流すシーンが多く見られます。誰だって負けたら悔しいんですよ。
社会で負けるということ
競争社会では定職に就けない人、収入の低い人、結婚できない人等は社会的に「負け組」という扱いを受けます。
これは別に誰かが「負け組だ」というわけでもなければそんな枠組みもない、本人の思い込みや周囲の空気によって生み出されます。
社会的に負け組になるということは日々悔しい思いをしながら生きていくということ。やり場のない悔しさはやがて怒りや憎しみを生みます。
重松清の「隣人」ではありませんがこうしたフラストレーションを抱えたまま生活している人は意外と多くいます(もしかしたらあなたの隣にいるかもw)。
競争社会が生む格差
競争社会はやがて格差を生みます。
競争で勝った人は豊かに暮らし、負けた人は貧しく暮らす。
競争社会の何が悪い!これこそ平等だ!公平だ!
という人もいますが格差社会はやがて痛ましい事件を起こします。
まだ記憶に新しい秋葉原事件もこういった社会に恨みを持った人間が生まれたからこそ起きた事件だと考えます(真相はわからない)。
SMAPの「ナンバーワンよりオンリーワン」という歌が流行りましたが実社会ではやはり未だに競争社会が続いていて、当然クラスで1位の人と最下位の人が同じ評価を受けるわけありません。
だけど私はそんな競争社会が大嫌いだ!
時代は変わりつつあります。
別にテストでいい点取らなくても、大学行かなくても、スポーツが出来なくても現代では豊かに暮らす方法はいくらでもあります。
しょいもない競争社会で上目指すのソロソロ辞めにしませんか。