才能というと特別優れた能力があることを指すことが多いかもしれませんが、ここでは特別優れた能力ではなく、(あらゆる分野で)平均値を上回っている能力があることを、「才能がある」とします。
「高能力」と言い換えても良いかもしれません。
私はこの「才能」について若い時(二十歳くらい)から向き合ってきました。向き合ってきた、というよりは興味を持っていた?という程度ですが…
それは別に自分の才能が、というわけではなく、他人(いわゆる成功者、落ちこぼれを含めるありとあらゆる人)についてのもので、その中でも今回の記事のテーマである、
「才能のない人は努力してどうにかなるか?」
について考えることが多かったです。
それについて一つ自分なりに結論付けることがことが出来たので記事にしようと思いました。
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生まれ持った人間の能力には差は生じる
「生まれ持った」という言い方をすると文字通り「生まれた時から」と誤認されやすいので先に説明しておくと、生まれ持った才能、能力差の「生まれ持った」というのは生まれつきあるものとは限りません。
生まれつきのものかもしれませんし、まだ物心の付かない幼少期の教育、過ごし方によるものなのかもしれません。
ちなみに人は人によって「生まれつき能力差がある」というのは欧米では当たり前のようですが、それが生まれつきなのか、幼少期の過ごし方によるものなのかは明確な答えは出せていないようです。
というのも能力差が出てくるのは早くてもある程度言葉が話せるようになってから(だいたい5歳くらい?)~修学前くらいです。その後どんなに優秀と呼ばれる人物になる人でも産まれた時から言葉を話せるわけはありませんし、どんなに優れたスポーツ選手でも赤ちゃんの時は他の赤ちゃんと同程度の運動能力しかありません。
メジャーリーグで活躍する大谷翔平も、5才児では普通の子どもと大きく変わらなかったはずです。
また、幼少期の学習能力、運動能力の成長には個人差があり、早い子どももいれば遅い子どももいますが、(異常なレベルでなければ)成長が早い子どもより遅い子どもの方が劣っているとは必ずしも言えないようです。
少し脱線してしまいましたが端的に言えば、誕生~幼少期の間のいつ頃に決まるかはわからないけど、能力差は人によって出てくる、というのは欧米諸国では割と当たり前なようで、修学する頃には能力差を計る試験のようなことをすることもあるようです。
アメリカの多くの学校ではギフテッドの生徒を選別するために、能力や可能性を様々な方法で判定する[3]。生徒の過去の作品集、教室での観察、達成度テストや知能検査などである。教育現場の専門家の多くは、選別の方法を何か一つ使用するだけでは正確にギフテッドを見極めることはできないと考えており、総合的な判断をする。
ギフテッド|wikipediaより引用
その中で優れた子ども(ギフト、ギフテッドと呼ばれる)はそれに相応しい教育を受ける、というのも割と一般的なようで日本では考えられないような話ですがそれだけ欧米では「人間の能力には差は生じる」というのは周知の事実とされているようです。
ちなみにギフトはいわゆる「天才」とは違い、クラスの中に1~3人くらいはいる普通の人より優れた子どもくらいを指すようです。ようするに出来る人、優れた人、才能のある人くらいの人を指します。
出来る人は能力のある人という考え方
「人間の能力には差は生じる」というのであれば、いわゆる「出来る人」は生まれ持った能力(何度も言うが生まれつきという意味ではない)がある人で、逆に「出来ない人」、「ダメな人」は生まれ持った能力がない人、ということになります。
・勉強が出来る人→元々能力の高い人
・勉強が出来ない人→元々能力の低い人
という日本の教育者が絶対大っぴらには言わない構図が成り立つことになります。
一般的には「勉強が出来る人は努力している人で、出来ないのは努力をしていないからだ」と言われます。同じように「成功している人は努力した人で、成功していない人は努力しない人だ」とも言われます。
これが正しいかどうかはひとまず置いといて、少なくとも「出来る・出来ない」には必ず個人差から生まれる基礎能力の差が出る、と私は確信しています。
勉強が出来る人と出来ない人の差
同じ履修科目を同じペースで学ぶ日本式の小学~中学校の学習は結果的に個人の能力差が出てくることをある程度証明してくれています。
多くの勉強が出来る人は「やるかやらないか」と言いますが、私はそうは思いません。
私はどちらかというと勉強が出来る方の人間でした。手前みそですが・・
家庭の教育が悪かったこともあって勉強そのものをほとんどしてこなったため、学生時代の成績が特別良かったわけではありませんが、それでも少し頑張ればクラスで上位になるくらいは勉強が得意でした。特に努力しなくてもテストで上位10%くらいに入ることが出来たんです。
しかし世の中そんな人ばかりでなく、「先生の話を何回聞いても理解することが出来ない人」もたくさんいるわけです。
これは努力の差ではなく完全に個人の能力差であると言えます。
また、同時に自分よりもはるかに優れた能力を持つ人もいます。
私が中学生だった頃、記憶能力にとてつもなく優れた同級生がいました。
国語の古文の授業で(今思うとなんの役にも立たない)暗記テストのようなことをしていたわけですが(祇園精舎の鐘の声~みたいなやつ)、彼はクラスの中で圧倒的に高い記憶力の持ち主でした。
そのテストで私はクラスで2~3番目くらいに記憶力が良かったわけですが、1番の彼は私達(2番、3番)とは勝負にならないくらい短い時間でたくさんの古文の一節を記憶していました。
「始めから覚えてたんじゃないの?」
と思うかもしれませんが、普通授業じゃやらないレベルで覚えていましたし、彼は全教科で学年トップクラスの成績だったので、いずれにしても優れた記憶力の持ち主だったのでははないかと考えます。
彼のような能力の高い人と、そうでない人の間では必ず成績に差が生じてきます。
これはある程度の範囲であれば努力すればどうにかなる問題かもしれませんが、少なくとも同テスト(暗記テスト)ではどうにかなる問題ではありません。
また、論理的思考力の高い人とそうでない人では理数系科目で差が生じてきます。
一般的な小中学校のレベルであれば高い論理的思考力がなくても問題を解くことが出来るので努力によってその差を埋めることは出来ると思います。
しかし努力して100点を採った低能力の人と、ほとんど努力せず100点を採った高能力の人とではどう考えても前者より後者の方が「勉強が出来る人」と言えます。
※語弊が生じるかもしれないので補足すると、凄い努力して記録を更新したランナーとほとんど努力をせずに記録を更新したランナーでは後者の方が優れたランナーである、ということを言っています。何故なら後者は更に向上する余地があるからです。
低能力の人は努力してどうにかなるか
これに関しては、
「努力してどうにかなる範囲ならどうにかなるが、高能力の人には勝てない」
が自分なりの一つの結論です。
人の能力に個人差がある以上、どんなに努力しても勝てない人には勝てません。
ただ、先述した小中学のテスト問題のように「努力でどうにかなる範囲であればどうにかなる」と思っています。
もちろんその「どうにかなる範囲」は人によって違い、著しく能力が低い人はやや能力が低い人に比べて「どうにかなる範囲」が狭まります。
また、範囲だけでなく「向かう先」によっても変わってくると思います。
今回端的に「能力の有無」で話していますが、一口に能力と言っても様々な分野に対して向き不向きがあるわけで、例えば記憶力が低くても他の分野(例えばスポーツ等)にはほぼ影響はありません。
また、一つの能力が著しく劣っていても、他の能力が人並程度であればそれを駆使してそれなりの成果を上げることも可能です。
努力出来る分野をやることが重要か
能力の低い人が有能な人、才能のある人と肩を並べるためには並みならぬ努力が必要です。
その分野で能力を発揮できる有能な人は、凡人が丸一日掛かってやる仕事を半分以下の労力で片づけるかもしれません。
なので能力のない人は自分が努力出来る分野を見つけることが重要です。
「努力が才能を凌駕する」とは言いませんが、少なくとも努力し続けることが出来れば肩を並べる程度にはなる、と思っています。
能力の高い人は生まれ持った高い知的好奇心や向上心があり、それが故に勉強が出来る、あるいは仕事が出来る人間となります。
能力が低い人でも「もっと向上したい」、「もっと勉強したい」、「もっと頑張りたい」という分野を見つけることが出来れば、それはすなわちその分野で(知的好奇心や向上心があるということなので)能力の高い人となり得るわけです。