私はよく仕事で確認を迫られることが多いです。
「○○ですよね?」
「○○で大丈夫だよね?」
「○○だったよね?」
これらの質問に対して私は基本的に二つ返事で「そうですよ」と応えてます。
だってメンドクサイじゃないですか。
「○○で大丈夫だよね?」
と聞かれても確実に「そうなのか」なんて資料見ないとわからないし、だいたい手元に資料がいつもあるわけじゃない。
だからメンドクサイんでOKって答えてます。
そしたらね。
まあよく聞かれるわけなんですよ。
優柔不断ボーイたちに。
責任を取らない生き方
学生の頃から部活のキャプテンやリーダーを率先してやってきた優秀な人ならともかく、なんとなくノホホンと生きてきた大半の人って責任を取ることが極端に嫌いなんです。
自分で決めて、自分で行動して誤った結果を招いた場合、その判断をした自分に責任がある。
「お前なにやってんだよ!」ってスゲー責められる。
だからそれを逃れるために他者に確認を取ろうとするわけ。
「○○さんが大丈夫って言ったから。」
ってね。
失敗の予防線を張る
日本で普通の学校に通って、普通の人の生活を送ればほとんどの人が失敗を恐れるチキン野郎に育ちます。
海外のことは知らないけど、日本の教育では失敗することは「ダメなことで二度と同じ過ちを繰り返してはいけない」と教え込まれる。
私はこの考え方がすごく嫌いでこういうことを言う人とは一緒に仕事したくないし出来れば避けて生きたい。
人間ってのは「良いこと」と「悪いこと」の判別さえ間違っていなければ自然と良い結果を招く行動をしようとする。だからあえて「同じ失敗を繰り返すな」と強調する必要なんて何もない。
「同じ失敗を繰り返すな」
という意識が失敗を生むわけなんです。
結果、多くの人は失敗することを恐れて、初めから挑戦しないか、仕事のようにやむを得ない場合は失敗してもお咎めを食らわないように予防線を張るわけ。
仕事もプライベートもすべて他人任せ
世の中の大半の学生は親や学校の先生の意見で進路を決めます。
どこの大学を受験するか、どの会社に就職するか。
ネットや学校案内のチラシ見て自分で調べて自分で行きたいと思った道に進む人はおそらくほとんどいないと思います。
なんとなく大学に進学してなんとなく先生が勧める会社に就職する。
こうやって育った子どもは大人になって社会に出ても結局自分で判断できない人間になります。
自分から何も決めようとせず、なにかやろうと思っても上手くいくかどうかまず人の意見を聞いて判断する。
たとえその判断が自分にとってどんなに痛手になっても自分で判断できないから他人の意見に従うってことよくあると思います。
仕事がキツくてうつ病になっても辞めない人とかってだいたいそう。自分で「辞める」という判断が出来ないんです。
自己責任能力のない人は成長できない
責任を負うのには結構な精神的負担があります。
そのため人は責任から逃れようとする。
だけど自分で責任を負わない人は失敗をしない代わりに成長もしない。「失敗は成功の母」って言う古い言葉があるけど失敗しない人って絶対成長もしないんですよ。
「○○で大丈夫だよね?」
って聞いた人はその判断が過ちだった場合、自分で判断したわけじゃないから自分の失敗だという自覚がありません。
そういう人ってやっぱり次も同じように他人に判断を委ねて失敗したらその判断を任せた人のせいにする。そうやって生きてる人間って結構多いよね。
判断力が弱いとどうなるか
いつも責任逃れがしたくて他人に判断を委ねてきた人は自分で判断する能力、自己判断能力が欠けていきます。
自分でリスクを背負わないので懸念されるリスク、成功を阻害する要因や不安要素、その不安が的中した結果等を考えることが出来ない。
そういう思考停止した人って咄嗟の判断力がないので緊急時や非常時に何も出来なくなる。普段考えることをしないから。
自分で考えるクセを付けましょう
東北の大震災の時、多くの人が指定された避難所で待機している中で、「ここは危険だ」と判断した人がさらに高い場所へ避難して助かったという話しがいくつかありました。
避難所だから大丈夫だと判断した多くの人は、想定をはるかに上回る津波にのまれて亡くなった。
「みんなが大丈夫だと言ってるから大丈夫だ。」
「国や県が指定した避難所だから安心だ。」
その判断が正しいか間違いなのかはすべて結果であってどんなに国や県のお墨付きでも結果が悪ければ正しいとは言えません。
大丈夫だったら問題ないけど大丈夫じゃなかったら「大丈夫だ」と言った周りの皆や国、県に抗議するんでしょうか。
「大丈夫じゃなかったじゃないか!」
ってね。
他人の判断で自分の人生まで決めてしまうって恐ろしい話です。